原支所にようこそ!

原支所にようこそ~概要・人口統計~

原の概要

「北には仰ぐ富士の峰 南にいだく駿河湾」と歌われている風光明媚な自然環境に原支所は位置しています。

古来から、農、漁業を中心とした地域、そして東海道の原の宿場町として栄えてきました。また大小さまざまな事業所が進出し、活力ある原となってきたのです。昭和43年4月に沼津市と合併して以来、都市化が急速に進み、学校の南側を東西に走っていた国道1号(現在の県道380号)が、原の北に移った昭和53年頃を境に、多くの企業の進出をはじめ、団地や住宅の建設が大々的になされました。特に、国道1号北側から浮島にかけては、市営・県営・雇用促進・公団等の団地をはじめ、ニュータウン原・東沖・町中の地域に個人住宅が急造され、人口が急増しました。

ちなみに、沼津市に合併する前、昭和40年の3,616世帯、昭和55年の5,463世帯、平成8年3月の7,216世帯、平成17年10月の10,151世帯で住民数27,405人と増加してきています。従って、素朴な農漁村的な地域も急速に都市化へと変化したために、生活環境の多様化、複雑化により多くの問題も生じてきています。自治会は21に増え、原中学校の生徒は、原小・原東小等の出身者約900名が通学し、保護者の職業は、第3次産業従事者が多く、共働きの家庭が多数を占めています。

原の由来

原は、「原」と「浮島」の二地区によって構成されていますが、その地名は、浮島沼が作り出した浮島ヶ原に由来しています。沖積世(一万年位前)初期、海岸線は愛鷹山麓にあり、富士川、狩野川から流出される土砂は長い時の流れの中で堆積し、それが沿岸州となり、内側は浮島潟、浮島湖と変遷し、その後も愛鷹山の河川からの土砂も加わって縮小し、浅くなって浮島沼となりました。その周囲は沼沢地となり、浮島ヶ原が出来あがったのです。鎌倉時代の「東関紀行」の中に、浮島の由来を“此の原、昔は海上にうかび、蓬莱の三つの島の如くありけるによりて浮島と名付けたり”とあります。浮島沼は、東寄り低湿地は富士沼、廣沼、浮島沼、西寄りの低湿地は柏原沼(湖)、須津沼(湖)等とも呼ばれ、また、富士八湖の一つに数えられていました。浮島ヶ原は往古より多くの歌人に詠われ、紀行文等には抒情と景色の美しさが記されています。また、浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一といわれ、広重はじめ多くの浮世絵師によって描かれました。

原は、浮島ヶ原の東、駿河湾砂丘の上に出来た宿で、「十六夜日記」等の中世の紀行文等の中に「原中宿」として出ています。古代の街道は根方の地を通っていましたが、平安中期以降の東海道は、海岸沿いの浦方路・(甲州道)を通るようになりました。原中宿は六軒町浅間神社付近だっただろうといわれています。その後の原の宿は、原駅南側の甲州街道沿いにあったといわれますが、慶長の大潮被害や幕府の新しい東海道の整備に伴い、現在の場所に移転し、形成されていきました。その後、新田開発により植田新田、助兵衛新田、一本松新田が生まれ、又、原宿東には古くより大塚町があり、江戸時代には、原宿二町(東町、西町)と大塚町で東海道原宿を形成していました。 明治22年(1989年)の町村制施行で、三新田、原宿、大塚町が一緒になり原が誕生しました。

浮島地区は、愛鷹山南麓、沼川上・中流域に位置し、大古より愛鷹山麓には人が住みつき、多くの遺跡が存在し、源平の昔には、浮島沼にまつわる多くの伝承を残し、又、明治初年まで幕府の愛鷹の牧場があり、部落、村民にとって愛鷹山、浮島沼は切り放す事の出来ない存在でした。明治22年に、根古屋・井出・平沼・石川・船津・西船津・境の七ヶ村が合併し、浮島村となりました。村名は浮島沼からとり、役場は平沼に設置されました。明治24年の村戸数427軒、人口2689人と記録されています。昭和30年に原と合併しました。翌、昭和31年に、旧村西部の三部落(船津、西船津、境)が分離し、吉原(現富士市)に編入されました。

浮島地区には有名な興国寺城跡、阿野全成等に係わる多くの歴史的伝承があります。昭和43年(1968年)に、原は沼津市と合併し現在に至っています。

原・浮島地区の人口(平成25年3月末現在)

世帯数 前年比
世帯数増減
総人口 男性 女性 前年比
人口増減
10,618 +66 25,612人 12,735人 12,877人 -352
原地区 8,143 +13 19,562人 9,692人 9,870人 -327
浮島地区 2,475 +53 6,050人 3,043人 3,007人 -25