17世紀から始まった愛鷹山(あしたかやま)山麓での茶生産をご紹介します。
・原海岸での地曳網
網曳きで心も身体も元気ハツラツ!!
日本一すばらしい富士山と千本松原を望む原海岸での地曳網体験はいかがですか?会社の福利厚生に、町内会やグループでのレクリェーションに最適です。
・沼津市原浦漁業組合 連絡先 090-1629-8525 (大沢)

松蔭寺は、約680年前に建立された臨済宗白隠派大本山の寺で、名僧白隠が住職となってから特に有名となった。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とも歌われた白隠禅師は、貞享2年(1685)に生まれ、明和5年(1768)、84才で入寂した。その墓(県指定史跡)は、この寺の境内にある。ここには、擂鉢松の伝説があり、白隠禅師に関する書画・文物を収蔵した宝物館がある。
毎年4月の「白隠と夜桜祭」では、松蔭寺で法要、芸能、遺墨展等が行われ、沼川河川敷に植えられた満開の白隠桜の下で、夜桜祭りが行われ、近隣の人たちで賑わう。
植松本家・帯笑園
江戸時代、花長者、東海道の名園、日本一の植物園等と称された植松家の庭園、盆栽(松等)、桜草、マツバ蘭、オモト等の鉢物が有名で、かのシーボルトはじめ多くの文人墨客、公郷、大名、政治家等が訪れました。昭和初期まで存続し、原宿文化の中心をなしていました。
興国寺城跡
興国寺城の歴史
興国寺城は、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が妹婿、今川義忠の戦死後、今川家の家督争いを鎮めた功績により、東駿河に領地を得て築城したものである。長氏は、延徳3年(1419)伊豆へ攻め入り更に相模を攻略し、小田原北条氏の基礎をつくった。早雲旗挙げの城である。その後、天野康景が家康の命により、一万石の城主となったが城の修築材料を盗んだ天領の農民を部下が殺したことから、本多正純の裁定を不服とし、部下の命を救うため、慶長12年(1607)城を出たので廃城となった。
往時を偲ぶ天守台
現在見られる、興国寺城の主な遺構は、根方街道沿いにある東根古屋(興国寺城跡)のバス停留所から北に上がったところに残っています。閑静な住宅地や茶畑などに囲まれた小高い丘の上に、かつては本丸がありました。そこには興国寺城についての説明板の他、北条早雲と最後の城主・天野康景の碑などが置かれています。ここから標識に従って急坂を登り詰めると天守台があり、そこからは浮島ヶ原、さらに遠く伊豆の方まで望むことができます。天守台には、建物の基礎に使った石が点在している他、南面には石垣が積まれており、城の面影が偲ばれます。
戦略上重要な拠点
興国寺城は、愛鷹山の尾根を利用して築かれました。当時、ここには東、南、西の三方を浮島沼の湿地帯に囲まれ、北は深い大空堀で尾根と城とが分断され、人馬の踏み入れが難しい要害地でした。また、ここは根方道と、浮島沼を横断して千本浜へ至る竹田道との分岐点に当たり、伊豆と甲斐を結ぶ交通の要衝で、更に伊豆の国境に最も近い駿河国の最前線でもあったのです。
北条早雲旗揚げの城
興国寺城は戦国大名、北条早雲が自立の一歩をしるした城と伝えられています。早雲は足利義視(室町幕府八代将軍足利義政の弟)の申次衆を勤めたあと、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の家督争いを収め、その功績により、長享2年(1488)に興国寺城主となりました。このとき、早雲はすでに57才でしたが、ここから運命が大きく開けます。
| 種別 | 名称 | 指定年月日 | 所在地 | 所有・管理者 |
|---|---|---|---|---|
| 国指定文化財 | ||||
| 史跡 | 興国寺城跡 | 平7/3/17 | 根古屋 | 沼津市他 |
| 県指定文化財 | ||||
| 書籍 | 科註妙法蓮華経 | 昭30/4/19 | 東町 | 松蔭寺 |
| 史跡 | 白隠禅師自画像 | 昭43/7/2 | 東町 | 松蔭寺 |
| 史跡 | 白隠禅師墓 | 昭29/1/30 | 東町 | 松蔭寺 |
| 有形民俗 | 浮島沼周辺の農耕生産用具 | 平2/3/20 | 島郷 | 沼津市 |
| 市指定文化財 | ||||
| 史跡 | 伝阿野全成・時元墓 | 昭58/6/15 | 井出 | 大泉寺 |
| その他の文化財 | ||||
| 史跡 | 白隠禅師生湯井戸 | 東町 | 長沢家 | |
| 史跡 | 白隠禅師誕生地碑 | 東町 | 長沢家 | |
| 史跡 | 帯笑園・臨春亭 | 西町 | 植松家 | |
| 史跡 | 題目塔 | 西町 | 昌原寺 | |
| 史跡 | 原壱ヶ浦供養塔 | 西町海岸 | ||
| 史跡 | 旧一里塚跡 | 原新田 | ||
| 古文書 | 根古屋区有文書 | 根古屋 | 自治会蔵 | |
| 考古資料 | 環頭太刀柄頭 | 井出 | ||