原支所-原の観光スポット

原支所にようこそ~観光名所~

歴史的資源(興国寺城跡)

「北には仰ぐ富士の峰 南にいだく駿河湾」と歌われている、風光明媚な自然環境に恵まれた原を紹介いたします。

興国寺城跡(こうこくじじょうあと)

稲見神社興国寺城の歴史
興国寺城は、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が妹婿、今川義忠の戦死後、今川家の家督争いを鎮めた功績により、東駿河に領地を得て築城したものである。長氏は、延徳3年(1419)伊豆へ攻め入り更に相模を攻略し、小田原北条氏の基礎をつくった。早雲旗挙げの城である。その後、天野康景が家康の命により、一万石の城主となったが城の修築材料を盗んだ天領の農民を部下が殺したことから、本多正純の裁定を不服とし、部下の命を救うため、慶長12年(1607)城を出たので廃城となった。

北条早雲の碑往時を偲ぶ天守台
現在見られる、興国寺城の主な遺構は、根方街道沿いにある東根古屋(興国寺城跡)のバス停留所から北に上がったところに残っています。閑静な住宅地や茶畑などに囲まれた小高い丘の上に、かつては本丸がありました。そこには興国寺城についての説明板の他、北条早雲と最後の城主・天野康景の碑などが置かれています。ここから標識に従って急坂を登り詰めると天守台があり、そこからは浮島ヶ原、さらに遠く伊豆の方まで望むことができます。天守台には、建物の基礎に使った石が点在している他、南面には石垣が積まれており、城の面影が偲ばれます。

戦略上重要な拠点
興国寺城は、愛鷹山の尾根を利用して築かれました。当時、ここには東、南、西の三方を浮島沼の湿地帯に囲まれ、北は深い大空堀で尾根と城とが分断され、人馬の踏み入れが難しい要害地でした。また、ここは根方道と、浮島沼を横断して千本浜へ至る竹田道との分岐点に当たり、伊豆と甲斐を結ぶ交通の要衝で、更に伊豆の国境に最も近い駿河国の最前線でもあったのです。

興国寺城跡地籍図北条早雲旗揚げの城
興国寺城は戦国大名、北条早雲が自立の一歩をしるした城と伝えられています。早雲は足利義視(室町幕府八代将軍足利義政の弟)の申次衆を勤めたあと、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の家督争いを収め、その功績により、長享2年(1488)に興国寺城主となりました。このとき、早雲はすでに57才でしたが、ここから運命が大きく開けます。

天守台からの眺め

要石神社(かなめいしじんじゃ)

要石神社鳥居要石神社要石神社JR東海道本線「原」駅の西、約1.8Kmの沼津市一本松、県道380号線(富士清水線)沿いの松林の中にある。言い伝えによると「要石は地上に顕れたる部分はわずかであるが、地中に隠れたる部分は実に大である。祠より北三町(約300m)をへだてる、大橋源太郎氏宅地井戸端辺の間に広がった一面の巌石で、太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石という」そうである。また、耳の悪いものは、穴の開いた石を供え祈願すると必ず治ると言われている。

大泉寺

植松本家・帯笑園(たいしょうえん)

江戸時代、花長者、東海道の名園、日本一の植物園等と称された植松家の庭園、盆栽(松等)、桜草、マツバ蘭、オモト等の鉢物が有名で、かのシーボルトはじめ多くの文人墨客、公郷、大名、政治家等が訪れました。昭和初期まで存続し、原宿文化の中心をなしていました。