| 1193年 |
(建久4) |
源頼朝が富士の巻狩りに際し、須山村の住人が自宅前の野生茶樹の葉を摘み、飲料として頼朝に献じたという。 |
| 1805 |
(文化2) |
富士郡岩松村で始めて培炉(ほいろ)を設けて茶を製造したという。 |
| 1861 |
(文久1) |
駿東郡沼津村の坂三郎は茶の栽培を試み愛鷹山麓に茶園を拓く。 |
| 1869 |
(明治2) |
徳川藩士牧之原の開墾を始め茶園を拓いた。この頃東部の茶どころ愛鷹山麓、富士南麓の開拓も始まる。 |
| 1872 |
(明治5) |
江原素六、愛鷹山麓の土地の借用に成功し、牧畜と茶業の経営を計画して茶園等を造成した。 |
| 1873 |
(明治6) |
明治6,7年頃浮島村に大宮方面より製茶業者が入って、平沼で茶を製造し横浜方面に出荷した。
1859(安政6)年に横浜が開港して、初めて茶が輸出されてから、茶の輸出が盛んになっていった。 |
| 1879 |
(明治12) |
当時浮島村の三戸が製茶業を営む。この頃、茶の栽培面積は急速に増加し、製茶業者も激増したが、その生産様式が何れも、手摘み、手揉茶で農家の副業の形で行われたものが多く、明治15,6年の不況時には製造を中止するものが増加した。 |
| 1899 |
(明治32) |
愛鷹山麓の土地4,200町歩の払い下げが認可される。関係町村は愛鷹山組合を結成し、開墾や植林に取り組む。この頃から愛鷹山麓での定型茶園の栽培が本格化した。 |
| 明治末期〜大正中期 |
明治末期より大正9年頃まで再び茶の輸出が増加し、製造も機械化が始まり、摘採もハサミ摘みとなり、浮島地区での生産も大幅に増加した。 |
| 1897 |
(明治30) |
高橋謙三、茶葉揉捻機(粗揉機)を完成させた。 |
| 1915 |
(大正4) |
内田三平は茶の摘採機(手鋏み)の特許を得た。大正3,4年頃になると、独立製茶工場が次第に多くなり、規模も大きくなって、生葉生産者、生葉仲買人、製造業者の区別が現れて来た。 |
| 大正末期〜昭和初期 |
第一次大戦後の不況、大正12年の関東大震災による打撃は全く深刻なものであって、茶の価格も著しく値下がりした。大正9年頃の好況時、浮島地区で100戸以上を数えた機械製茶業者も昭和6年には僅か17戸となってしまったために、生葉の約3分の2が他地域に移出される地区となり、それは昭和45年頃まで続く。 |