原の歴史・地域概要

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原の歴史・地域概要  望月宏充

1. 浮島沼と原
2. 三新田の開拓
3. 原宿の地域構成
4. 原宿の規模・構成
5. 大塚町について
6. 地域の概要


浮島沼と原
 我々の住む″原″の地名は浮島沼がつくりだした浮島ヶ原に由来する。
 沖積世(一万年位前)初期、海岸線は愛鷹山麓にあり、富士川・狩野川から流出される土砂は長い時の流れの中で堆積し、それが沿岸州となり、内側は浮島潟、浮島湖と変遷し、その後も愛鷹山の河川からの土砂も加わって縮小し、浅くなって浮島沼となった。その周囲は沼沢地となり、浮島ヶ原が出来あがった。
 鎌倉時代の「東関紀行」の中に浮島の由来を″此の原、昔は海上にうかび、蓬莱の三つの島の如くありけるによりて浮島と名づけたり″とある。浮島沿は東寄り低湿地は富士沼、広沼、浮島沼、西寄り低湿地は柏原沼(湖)、須津沼(湖)等と呼ばれ、又富士八湖の一つに数えられた。
 浮島ヶ原は往古より多くの歌人等にうたわれ、紀行文等には抒情と景色の美しさが記されている。又浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一といわれ、歌川広重はじめ、多くの浮世絵師、絵師等により描かれた。

 原は浮島ヶ原の東、駿河湾砂丘の上に出来た宿で、「十六夜日記」等の中世の紀行文の中に「原中宿」と出てくる。古代の街道は根方の地を通っていたが、平安中期以降の東海道は海岸沿いの浦方路(甲州道)を通るようになる。
 原中宿は原新田山神社、元の一里塚があった附近から六軒町浅間神社附近にあっただろうといわれる。その後の原の宿は原駅南側の甲州道(旧国一)沿いにあったといわれるが、慶長の大潮被害や幕府の新しい東海道の整備に伴い、現在の場所に移転し、形成されていった。
 その後、新田開発により植田新田・助兵衛新田、一本松新田が生まれ、又原宿東には古くより大塚町があり、江戸時代には原宿二町(東町・西町)と大塚町で東海道原宿を形成していた。明治22年の町村施行で三新田・原宿・大塚町が一緒になり、原町が誕生した。
 その後、昭和30年に隣接の浮島村と合併し、新原町が出来る。昭和43年に再び沼津市と合併し、今までの区は沼津市の大字となる。

三新田の開拓
 徳川家康は関ヶ原の合戦に勝利(慶長5年=1600)し、天下統一を成し遂げると五街道を中心とした道路網を整備し、伝馬制度を設けた。
東海道には江戸と京の間に五十三の宿駅を置き、往来の利便の為に松並木を作り、一里塚を設置した。
 しかし、当時は宿と宿との間には人家は少なく、通行に危険が伴った。その為、幕府は通行の安全・街道整備・農民の定着・収穫の増産等の目的で新田の開発を奨励した。原の三新田も吉原地区の新田と共に開拓された部落である。
 植田新田(植田)
 遠州浪人、植田三十郎親忠が江戸初期、干拓を図るも泥の浮動の為失敗し、その後今井六左衛門昌先の手により開発が進められた。幕府領、村名は最初の開拓者の名をとる。幕末まで植田の薬師さんとして親しまれた神護寺があった。区内には八幡神社がある。
 助兵衛新田(桃里)
 遠州より鈴木助兵衛(二代)が元和元年(1615)この地に移住し開拓した。幕府領、文政7年(1824)村民は「開闢地神」の号を贈り碑を建てた。村名は開拓者の名をとる。
しかし後に助兵衛という語呂を嫌い、明治41年に当時桃の生産が盛んだった為、桃里と改めた。区内には浅間愛鷹神社・稲荷神社・桜地蔵堂がある。
 一本松新田(一本松)
 大橋五郎左衛門(二代)が慶長年間に遠州より移住し、開拓して幕府より新田開発の褒美として諸役御免の証文を授かった。その後、順次開発が進み、文政年間には36名の移住があった。幕府領、村名は当時あった一本の大松から名付けられたと言われる。区内には海岸山犬通寺(曹洞宗)・浅間神社・要石神社がある。

原宿の地域構成
東海道五十三次の十三番目の宿駅であった原宿は原宿二町(東町・西町)と大塚町の三町で構成された。中心は原宿二町で現在の西町と六軒町の境に西の見付(西木戸)があり、六軒町は見付外(宿外)家並、原新田は問屋新田と呼ばれ、行政面は原宿の支配下にあった。
 宿の東には現在の大塚本田と大塚新田の境に東の見付(東木戸)があった。大塚町は原宿二町と原宿を構成するも行政面では独立した町として村方三役(名主・組頭・百姓代)が置かれていた。
 問屋新田(原新田)
東海道が浦街道から移転したのに伴い、原宿の問屋場の商業資本の下に新たな街道沿いに開発、整備された部落で、初期の原の宿(原中宿)はこの附近にあったといわれる。一本松との境附近に一里塚があった。区内に山神社がある。
 見付外家並(六軒町)
 原宿西見付の外側の部落で最初、原宿の有力者の下に六人が家を築き、それが六人衆、六軒衆、六軒町と呼ばれていくようになったと言われる。尚明治5年まで部落中心附近に観音寺、部落東端に目眼寺という寺があった。区内には原で一番古い浅間神社・秋葉神社がある。
 原宿西町(西町)
 原宿西組とも呼ばれ、原宿東町と共に宿駅の中心をなし、西の問屋場(人馬伝送を取扱う所で、これに携わる人を宿役人という)が置かれ、原宿の郷蔵、高札場、本陣等があった。行政面では西町、東町にそれぞれ村方三役が置かれていた。かつて常休庵があった。区内には安泰山徳源寺(臨済宗)・龍守山昌原寺(日蓮宗)・浅間神社がある。
 原宿東町(東町)
 原宿東組とも呼ばれた。東町には東の問屋場、脇本陣等があった。又脇本陣を務めた高田氏の先祖がこの地の一部(大塚町との境附近)に高田町を開いた。区内には海源山西念寺(時宗)・鵠林山松蔭寺(臨済宗白隠派大本山)・山神社がある。
                                                                                           
原宿の規模・構成
 原の宿は東見付から西見付まで六五七間(約1.2km)あり、沼津宿へ一里半(約6km)、吉原宿へ三里六丁(約14.4km) の位置にあった。天保14年(一八四三)頃には宿の石高約一七六七石、家数三九八軒、人口一九三九人とあり、宿の規模としては比較的小さな宿であった。
 しかし、原宿の特徴としては街道一の富士山の眺めを多くの歌人・絵師・文人等が作品に残し、又白隠国師の生まれた所、彼の修業、再興した松蔭寺や原宿中心地にはシーボルトはじめ、多くの文人墨客・公卿・大名・後には皇族・政治家等が訪れて、当時街道一の庭園・植物園といわれた植松家の″帯笑園″があり、文化の発信地ともなっていた事である。
 次に原宿の施設、機能の主なものをあげると、宿駅の公私の旅人の人馬伝送、宿泊、助郷等の宿機能に関する主な業務を統括した問屋場があり、当時は東西二ヶ所にあって隔月交替で業務を行っていたが、東の問屋場が火災で焼失してからは以後、昌原寺入口と本陣との間にあった西問屋場で業務を行った。問屋場には長たる問屋、年寄の宿役人の下に帳付、馬指等の下役人が働いていた。
 西問屋場西側には代々渡辺家が務めた原の本陣があり、本陣が賄いきれない時に利用された脇本陣は始めは東町の高田家が務めていたが火災に会ってからは幕末の一時期、香貫屋、若狭屋の旅籠が務めた。一般旅籠は天保前期には中小約25軒位あったが、その後度々の火災で軒数の移動があった。
 原浅間神社西側には幕府の禁令、定書等を記し掲げた高札場があり、西問屋場隣には人馬継立が宿内で賄いきれない時、付近の村々に人馬調達させる助郷制度の下で村々から選ばれた総代が務める助郷会所があった。
 他に幕府に治める年貢米、凶作の為の備蓄米等を保管する郷蔵が昌原寺南側にあり、松蔭寺附近に宿の治安警備の為の自身番所があった。

大塚町について
 原宿二町と共に原の宿を構成していた大塚町は行政面では幕府韮山代官(江川氏)の支配の下に村方三役を持った独立した町で、今の大塚本田、大塚新田、三本松新田を範囲としていた。大塚本田以西が原宿内、大塚新田以東が宿外であった。大塚町は明治22年、原宿、一本松新田、助兵衛新田、植田新田と合併し、原町となった。
 大塚(大塚本田)
 大塚町の中心で原宿を構成していた地域。大塚の地名由来は清梵寺縁起によると、延暦年中(一二〇〇年位前)安房の国の得満長者が都での勤めを終え帰国途中、この地で亡くなりここに大きな塚(墓)を築き葬られた。後に長者の妻が寺(清梵寺)を建て供養したといわれ、この地を後に大塚と呼ぶようになったという。戦国期には駿河国阿野庄大塚郷と記され、又大塚村、大塚町等と呼ばれた。区内には前記の大塚地名・地蔵尊由来を持つ得満山清梵寺(臨済宗)、海上山長興寺(臨済宗)、高木神社、秋葉神社がある。
 宿外家並(大塚新田)
 大塚町東側に開拓された地域で、西の六軒町と同様宿外部落の為、宿外家並と記されている。ここには茶屋があって旅人はここで一服し、旅装を整えてから宿に入ったと言われる。明治5年まで道圓坊があった。区内に神明宮がある。
 三本松新田(三本松)
 三本松の伊勢神明宮内の元禄6年(一六九三)の庚申塔には駿河郡阿野庄三本松村、亨保3年(一八〇三)には出村字三本松村と記されている。原宿大塚町の宿外の出村として東は今沢村に接し、行政面では大塚町の小字となっていた。往古、清原庵という寺があった。地名は松並木の中にあった三本の老大松に由来するという。


地域の概要(平成8年度学校経営書より)
 「北には仰ぐ富士の峰 南にいだく駿河湾」と歌われている風光明媚な自然環境に原中学校はある。古来から、農、漁業を中心とした地域、そして東海道の原の宿場町として栄えてきた。また大小さまざまな事業所が進出し、活力ある原町となってきた。
 昭和43年4月に沼津市合併して以来、都市化が急速に進み、学校の南側を東西に走っていた国道1号(現在の県道380号)が、原町の北に移った昭和53年頃を境に、多くの企業の進出をはじめ、団地や住宅の建設が大々的になされた。特に、国道1号北側から浮島にかけては、市営・県営・雇用促進・公団等の団地をはじめ、ニュータウン原・東沖・町中の地域に個人住宅が急造された。
 ちなみに、沼津市に合併する前、昭和40年の三六一六世帯、昭和55年の五四六三世帯、平成8年3月の七二一六世帯で住民数二一九六四人と増加してきている。従って、素朴な農漁村的な地域も急速に都市化へと変化したため、生活環境の多様化、複雑化により多くの問題も生じてきている。
 自治会は21に増え、生徒は、原小・原東小等の出身者約九〇〇名が通学している。保護者の職業は、第3次産業従事者が多く、共働きの家庭が多数を占めている。