首かけ松

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首かけ松   大泉寺

 むかし、むかし、今から八百年ほど前のことです。
阿野の里の寺に、静かな朝の日差しがいっぱいにさしこんで、お堂の屋根がきらりと光りました。
昨夜、この大泉寺へ来て、一夜を過ごした阿野の館に住んでいる時元は、目覚めてから、寺の庭に出ました。

 時元は、
 (ああ、なんという美しい緑だろう。あたりも本当に静かだ。)
と、美しい庭の姿を見つめていました。

 おりから、朝の早いおつとめを終わった寺の和尚さまも、庭に出てこられました。

 「時元どの、いかがかな。」

 「はい、昨夜は、いろいろのことが頭に浮かんで、よく眠れませんでした。」

 「それは、それは。」

 「和尚さま。この阿野の里は、こんなに、おだやかな朝を迎えましたが、父、全成(ぜんじょう)は・・・、父上のお身の上はどうでしょうか。」

 「そうじゃ。わしもそのことを心配しているのだが・・・」

 「この間、鎌倉から来た人の話では、北条殿が父上のおられる下野(しもつけ)の国へ、軍勢を差し向けられたとか。」

 「そのことが、間違った知らせであればよいがのう。」

 二人は、全成のことを考えて、深く沈みこんでいきました。

 「大変だ。松の枝に人の首がひっかかっているぞ。」

 「やぁ、確かに人の首だ。」

 「これは、いったい、どうしたことだ。」

 このように、大声で叫ぶ村人の声が聞こえてきました。時元と和尚さまの顔は、さっと青ざめました。

 村人たちは、松の枝を見上げ、指さしながら、そこに立ちつくしておりました。

 恐ろしさに震えている村人を励まし、その助けを借りて枝から首を降ろしました。それは、間違いなく、全成の首だったのです。

 「父上・・・。」

と叫んだ時元は、地面に倒れ伏して、ただ泣きじゃくるばかりでした。和尚さまたちは、恐ろしさと、時元への思いやりとで、なんの言葉も出せませんでした。

 やがて、時元は気を取り直して、父の首を寺の裏へ手厚く葬りました。和尚さまは、繰り返し、お経をとなえて、全成の魂をなぐさめました。

 時元の父、阿野全成は、源頼朝(みなもとのよりとも)の弟です。小さい時の名を「今若丸(いまわかまる)といいました。

 今からおよそ八百二十年ほど前、「平治の乱」という戦があり、今若丸の父、源義友は、戦いに敗れ、ついに討たれてしまいました。母の常磐御前は、今若丸の手をひき、牛若丸(のちの源義経(みなもとのよしつね))を抱いて、雪降る中を、平家の侍達に追われて逃げました。いったんは平家の侍に捕らえられたのですが、のちにゆるされました。

 その後、頼朝が平家をほろぼすため、兵を挙げ、全成も頼朝を助け、手柄があったので、駿河の国阿野の庄(今の沼津市の原、浮島あたり)を頼朝からもらい受け、「阿野」を苗字にして、「阿野全成」と名乗っていたのです。

 全成は、浮島の井出に館を作り、たくさんの僧兵(お坊さんの侍)を置いて、勢いがありました。

 さらに、その館の近くに、寺を建てて祖先をまつりました。これが大泉寺なのです。

 全成は、兄、頼朝が亡くなってから、急に勢いを伸ばした北条氏から睨まれるようになりました。

 ついに、北条方が、全成を討つため、たくさんの軍勢を差し向けました。全成は戦いに敗れ、下野国(今の栃木県)に流され、建仁三年(1203)年、とうとう首を切られてしまっったのです。

 この切られた首が、一夜のうちに、子供の時元のいる大泉寺に飛んできたというのです。

 村の人々は、
 「北条に捕らえられ、首をはねられた全成さまが、どんなに残念であられたか、はかり知れないことよ。」
 「あまりの無念さに、そのお首が、お子の時元さまのおられる、この大泉寺まで飛んで来たに違いない。」
 「全成さまが、おかわいそうじゃ。時元さまがお気の毒じゃ。」
 「ひどいのは北条じゃ。北条が憎い。」
と、口々に話し合ったと言われています。

 このような言い伝えのある松は、
 「首かけ松」
といわれ、長く、大泉寺に残っていたと言うことです。

  今、大泉寺を訪ねると、この「松」はありませんが、枯れた松の大きな切りかぶの上に、記念碑が立てられていて、阿野全成の気持ちを物語っています。

 また、大泉寺には、全成とその子、時元の墓があり、頼朝以来、三代で滅んでしまった源氏の悲しい運命を、長く、のちの世に伝えています。